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万里の長城が京都にある!?ホント?ウソ?(歴史の足跡)

この間、松野醤油の6代目傳吉社長に桃山時代、
江戸、明治、大正と当時の生活を聞かせてもらい
ひょんな事から秀吉の話になり「”おどい”が未だ、
近くに残っ取る」と言われました。
 
 
おどい!?
 
 
 
オ・ド・イ!?
 
 
尋ねると「まあ、中国の万里の長城みたいなもんや」
 
万里の長城!? 京都に? それも市内に?
 
 
私も京都に住んでいながら初めて聞く単語”オドイ”
 
 
ちょっと興奮!!
 
 
場所を教えてもらい寄り道してきました。

残されていたのは北区紫竹上長目町・堀川町。
他にも何カ所かあるそうです。

戦国時代後期の都市の多くには惣構と呼ばれる都市全体を囲む防壁があ
った。当時の京都は応仁の乱後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂
し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣
構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えら
れている。他にも、御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その堤防とし
ての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨
川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。又、中世の
京都では延暦寺八坂神社など周辺の寺社が大きな影響力を持っていた。
御土居によって洛中と洛外の交通を制限することにより、これらの勢力を削ろ
うとした、とする説がある。(ウィキペディアより)
 

ひとつ判ったことは洛中・洛外の範囲が自分の中で曖昧だったのがはっきり
わかった。御土居の中が洛中、その外側が洛外。

まだまだ、知らないことがたくさんある京都の魅力を久々に感じました。
万里の長城を巨大な城壁として捉えていたので実際の現場を見て
半分がっかり、半分は勝手に先入観で想像した自分にがっかり。
ミステリーやね~。

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